コム兄の夢について そして父になる編

コム兄の生い立ち

みなさんこんにちは。

コム兄の夢を紹介するシリーズも早いもので第3弾になりました。

とは言えまだまだ夢については語っておらず、むしろ過去の挫折のお話ばかりが続いています。

もう少し辛抱してください。

そして、もう少し過去のお話にお付き合いください。

ちなみに第1弾はこちらから。

前回の記事では

瀕死の状態のコム兄が藁にすがる思いで修養科なるところに行き自分らしさを次第に取り戻した

というような内容でした。

(要約したら1行で終わってしまったw)

第2弾を読んでいない方はこちらから。

心に自由を取り戻し、スカウトされてその気になってしまったコム兄。

どんな生活が待っているのでしょうか。

今回はコム兄の20代前半をサクッとまとめて紹介していこうと思います。

皆さんが気になるであろう2万円生活を詳しく書きたいところですが

それでは前に進まないのでさっくりと触る程度にしたいと思います。(気になる人は個人的には聞いてくださいね)

では早速行ってみましょう。

ちぇけら。

修養科を終えて

なんやかんやありまして和食に行くことになったコム兄ですが

新卒と同じ4月からの採用ということになり1月末に修養科を終えたコム兄は実家へ帰りました。

約2ヶ月間何をしていたかと言うと、

それまで嫌で嫌で仕方なかった天理教の教理の本を読み漁ったり、

高校の時に学校に内緒でバイトしていたイタリアンビュッフェでバイトさせてもらったり。

高校の時にバイトしていた時とは手際が段違いになっていたので

「ここに就職しないか?」とここでもお誘いを頂いたりして。

ありがたい話です。

その他にも元の友達と無駄に夜遅くに車で出かけてみたり、

酒を飲みながらくだらない話をしてみたり。

小学校からの友達と遊ぶにしても移動手段がチャリンコから車に変わっていたり、

コーラじゃなくてビールになっていたり。

日常のアレコレや恋バナをするにしても無限に妄想してキラキラしていた学生時代とは違って

それぞれの悩みには大人な事情が絡んでいたり。

想像していた大人とはちょっぴり違った部分もあったけど気心の知れた地元の友との時間は本当に楽しかった。

お互い老けたな」

なんて20歳のクソガキ共がわかったようなことばかり言ってたっけな。

春、リスタート

3月下旬、天理に戻るなり新人研修に参加しました。

参加している人を見てみると当たり前だけど学歴だけ見ても高卒、専門卒、大卒と幅があったり、

それ以外にも宗教的な信仰度合いも考え方も様々。

そういった様々なバックボーンを持った人たちの話を聞けるのはとても面白かったですね。

面白かったけど言語化能力の低いコム兄は自分の気持ちを言葉にするのが難しくて苦労した気もします。

研修が終わると部署が発表され、コム兄は予定通り和食係に配属されました。

噂では”洋食係”もあるらしいという噂を耳にしていたので

ワンチャンそっちに呼ばれないかなと期待しましたが空振りに終わりました(そらそうやろ)

部署が発表された後、配属された新人が一人ずつ課長と面談を行いました。

今でもその時のことを鮮明に覚えています。

「コム兄君だね。話は聞いています。即戦力として期待していますよ。でも良いときばかりではないでしょう。辛いときや困った時、どちらを選んだらいいか迷った時にはどちらを選べばより喜んでもらえるか神様ならどんな事をなさるだろうかを考えなさい。そうしたら悪いようにはならないはずです」

修養科を経て実家に帰って教理の本をも見漁っていたお陰か、こういった”神様”的な話にも嫌悪感を抱かずに素直に聞くことが出来ました。

この時頂いた言葉は今でも何か困った時の指針となっています。

その他にも

「コム兄君は次男で教会を継ぐ予定もないみたいだから早めに結婚して腰を据えて務めてくれると安心なんだけどね」

という言葉を頂きました。

でもこちらは華麗にスルーしておきましたw

のはずだったけど結果的見れば比較早い歳で結婚をすることになります。

その辺はこの記事の後半で。

人生本当に分からないもんですね。

こうしてコム兄の料理人第二章が始まったのでした。

悩めるコム兄と鼻血

配属された和食係には当時5人の先輩がいました。

この調理場一筋の料理長Mさん。

料亭や居酒屋など様々なところで修行し、自分の店を持っていたこともある二番手のK野さん。

気持ち”は”永遠の18歳の女性K池さん。

大学を卒業して初めて料理を始めた当時5年目か6年目のTさん。

同じく高校を卒業してここに配属されてから料理を初めた2年目のI君。

という構成だった。

多少高校の時に授業で習ってはいたものの始めて見るものや実際に味わったことが無いもの、

そして合わせ調味料の多さ、季節の食材を反映させた仕立ての数々。

本当に勉強になりました。

食材への火入れのアプローチ、料理全体を通した考え方など

専門で習ってきた西洋料理のそれと全然違っていて発見が多かった。

直接教えてもらったという事はそれほど多くなかったけど(使いっ走りだったのであまり食材に触らせてもらえなかった)

洗い物をしている合間に技を盗んだり、ボールに残った味噌をなめて味を覚えたり。

仕事が終わってからも完成した料理の写真をノートに張り付けて

その時思った事をメモしたり、分からない単語を調べたり。

料理に対する幅を広げる上で必要な期間だったし財産になっていると思います。

今になって思えばね。

若かった当時のコム兄は掃除をしに来たんじゃないんだけどな。

もっと料理がしたいな。

と正直物足りなさを感じていました。

自分に与えられた仕事をササっと終わらせて仕事をもらいに行っても中々次の仕事がもらえない。

後から聞いた話ですが2年目の先輩を飛ばしてコム兄に仕事を振るわけにもいかなかったという事だった。

しょうがないんだろうけどね。

分かる分かる。

今ならね。

僕で役に立つならと喜び勇んでと再出発したはずが

すぐに環境のせいにしてしまうコム兄の悪い癖が頭を覗かせ始めちゃうわけです。

そんな少しずつ不満も溜まってきたコム兄に事件が起きます。

コム兄と同じ様に修養科を終えた同い年くらいの青年が洋食に配属される予定らしいとの事。

そうなんですねー

と全然気にしていない素振りをしていたけど、身体は正直なんですよね。

鼻血が止まらなくなったのでした(なんでやねんw)

料理人としてのキャリアは諦めたはずだった。

でもやるからには成長したいという気持ちが湧いてくるのに時間はかかりませんでした。

でも先輩がいて詰まっていて仕事がもらえない。

しかも自分の主戦場がが西洋料理であることや

連絡を取り合っていた同級生の頑張りなどを見て焦っていた時期だった。

部署発表の時にワンチャンあるかもと期待した洋食にあとから来た新人がスッと配属された。

やるせない気持ちが鼻血として爆発してしまったのだ。多分。しらんけど。(大袈裟だよ)

タイミングの問題だから仕方ないけど、コム兄も洋食に配属されていたら少しは違ったかもなと妄想してみたり。

こういうマインドになってしまうと何もかも見え方が変わってくるんですよね。

すべてが内向きになってくるというか自分勝手な解釈に変わってしまうというか。

見えるモノ、聞くモノ、味わうモノにもいちいち不満が募ったり。

良くないですね。困ったもんです。

チャラコム兄に忍耐力をください。

寮生活

鼻血を放出したコム兄ですが職場のアレコレはちょっと置いといて

私生活や生活の拠点である寮の話なんかを紹介していきたいと思います。

アイスブレークも必要ですよね。

コム兄が入寮したのは第二ひのきしん寮

本部で勤務している多くの独身男性たちはこの寮を拠点に生活しています。

社会人の寮という事で面倒くさい決まりごとは多くなかったように思います。(多分)

それでもこれだけは犯すべからずという鉄の掟が存在した。

それは女人禁制(もちろん他にもルールはあります)

見つかったら即退寮。

とはいっても、独身の狼なのかハイエナなのか分からないけど獣達だらけの巣窟に忍び込もうという女子がいるとも思えませんがw

さて、第二ひのきしん寮にはいろんな部署の人が生活しています。

コム兄の部署以外にも事務職の方や大工さん、電気屋さん、英語やスペイン語などの外国語の翻訳をしている人などなど。

朝早くから出勤する人や朝はゆっくりだけど夜遅い人、ほとんど寮に帰ってこない人など様々です。

朝食や夕食は基本的に寮で食べ、入浴も大浴場でワイワイガヤガヤ。

おとこだけの寮ですから共用部分は小汚かったりします。

今はだいぶと改善されたようですが、なにせ酔っ払いが多いからねw

そうそう基本的には8畳もしくは6畳の部屋を2人で暮らします。(コム兄は8畳の部屋をゲット)

コム兄はあれやこれやと人生遠回りしてきたので

3個下の弟と同期になりましたので弟と同部屋にすることにしました。

端から見れば、同じ年に同じ苗字のやつが同じ部屋に住む。

ややこしいったらありません。

弟が同級生たちにコムと呼ばれていて、

そのお兄ちゃんだからという事でめでたく「コム兄」と呼ばれるようになったんです。

(なんで弟が基準やねんという文句は大人なコム兄は言いません)

部屋に家電は全くなくて、あるのは小さな棚と貴重品を入れる金庫w

それに当時はエアコンがついてなくてね。(今は導入されています)

今ほど暑さも酷くなかったように記憶していますがそれでも夏は地獄でした。

2年間2万円生活を生き延びた勤務年数が長い人の部屋に行くとウインドウクーラーが付いていて本当に天国かと錯覚した覚えがあります。

当時ブザービートっていう山ピーと北川景子さんが出演したドラマがやっていた頃。

暑くて仕方ないので窓を開けて扇風機を回してテレビを見るわけです。

みんな各部屋で見てたんでしょうね。

盛り上がるシーンの時には歓声が上がって外から聞こえてきて、しまいにテンション上がった奴がB’Zの曲を熱唱していたり。

懐かしすぎるなぁ・・・

アクシデント

そんな猛暑扇風機忍耐生活でしたがアクシデントが起こります。

暑い中ずっと働きずくめだった扇風機あいぼうがオーバーヒートを起こして壊れてしまったのです。

死活問題。

おいそれと扇風機を買いに行けるほど経済的余裕もない当時。

分解して再起動を試みるもウンともスンとも言わない。

扇風機の扇ちゃん、私たちをおいて逝ってしまわれました。

今の時代の人たちにはエアコンなしの寝苦しさが伝わるのかな。

暑くて寝付けなくて夜な夜なシャワーを浴びて汗を流しに行ったり、

冷蔵庫で冷やしていた飲み物を抱いて寝たり。

それでも耐えられない時にはおつまみ用に鶏肉を1枚1枚パックして冷凍していたものを

保冷剤代わりにして脇に挟んで体を冷やして寝たこともありましたっけ。(翌日美味しく頂きました)

※よい子はマネをしないようにしましょう(そんな奴いない)

どうです?想像を絶するでしょう(笑)

それでもそれなりに楽しく過ごしていましたね。

だって、みんな同じ環境だから特別自分だけがひもじかったわけでもないし、

酒を飲みたいけど買いに行けない時には先輩の部屋に行けば飲ませてくれたりし、

悩みがあれば相談に乗ってくれたし。

もう一回戻りたいか?と問われれば絶対に嫌ですが、かけがえのない経験だったなと思います。

2年目からは寮の幹事(自治会のようなもの)になって寮運営に携わったりなどもしました。

人の話を聞く力はこの時に培われたなと思います。

感謝感謝です。(本当にそう思っていますよ?)

コム兄は4年弱こちらの寮にお世話になりました。

みんな元気にしてるかなー。

それにしてもアイスブレイクのはずが刺激が強すぎましたかねw

悩めるコム兄とその後

話を本筋に戻そうと思います。

またまた自分のことはかえりみず、環境のせいにする癖がニョキニョキと姿を現した所までは紹介した通りです。

このまま続けられる自信がなくなったコム兄は今後について料理長に相談してみることにしました。

辞めるのか、このまま続けるのか。

本当に忍耐力が無くて情けない話ですけど

自分がつぶれる前に人に相談できるようになったのは成長したところかなとも思います(変にポジティブw)

実際コム兄の中では残るという選択肢はほとんどなくて、辞める方向で話をしたと記憶しています。

「ただ・・・もし洋食に異動できるならもう少し頑張れる気がします。」

なんて自分勝手な都合のいいことを言ったりして。

12月の事だったと思います。

有難いことに異動する方向で検討して下さり退職を回避することが出来ました。

同じ環境で1年も辛抱できない自分を恥ずかしく思いますが、本当に勇気を出して異動を申し出てよかったと思います。

異動した洋食ではすぐにいろいろな仕事を任せてくださったし

とてもやりがいを感じながら仕事をすることが出来ました。

お金は無いけど時間だけはあるという環境の中で、とにかく自分自身が腐らないように勉強しました。

とは言っても出来る事は限られているので部署にある料理の専門書を読んだり図書館に行ったり。

コム兄よりも少し早く入った同い年の青年はパティシエ志望だったので、

料理の事をコム兄が教えて、反対にデザートの事は彼から教わったり。

若い料理人なら一度は通る道だと思うのですが、奇をてらって食材をこねくり回すことをしてみたり。

イメージは湧くんだけどそれを実際に料理に落とし込む技術が無くて悔しい思いをしたり。

今すぐには無理だとわかっているけどいつか行けるときが来た時役立つようにと

仕事が終わった後に大学生に交じってフランス語の授業も受けたりしました。

同級生の活躍が焦りに繋がっていた和食在籍時とは変わって、それが励みになり好循環になっていったように思います。

仕事が順調にまわり始めるとプライベートの方も充実してくるわけです。

2年目に入ってから寮の幹事をしていたという事もあって忙しかったですが、そういった仕事は違った刺激があったことも良く働いたように思います。

仲間に恵まれたおかげて本当に楽しく過ごしました。

寮祭を企画したり、幹事ミーティングの後に飲み会をしたり。

お金が無いながらもとても楽しく充実した日々でした。

寮の新歓で司会をする鬼太郎みたいなコム兄

こうして多くの方の支えのお陰で壮絶な2万円生活も乗り切ることが出来、

3年目になって少しは余裕をもって生活できるようになったのでした。

コム兄の時代は3年目から頂ける額が7万5千円程度(だったと思います)になりました。

普通に考えたらというか、冷静に考えたら

いやいやいや

という額ですが信者さんのお供えから頂いてるものなので、文句は言えません。

住むところがあって、食事もあって、それだけで有り難いわけです。

使い方は人それぞれですけど給料まるまるお小遣いとして使おうと思えば使えるわけだし。

月々の支払いでいくらか飛んで行ったとしても2万円生活を耐え忍んだ立場から言うと

もうそれはそれは大富豪なわけです。(大袈裟)

でも振り返ってみても何に使っていたのか思いだけないんですよね…

ほとんど貯金できていなかった事だけは覚えていますw

結婚、そしてコム兄親父になる

そして月日は流れ、コム兄24歳。

結婚いたしました。

結婚式の予定日は東日本大震災が起きた年の4月でした。

実家も被害は大きくなかったものの壁の一部が剥がれて崩れ落ちたところもあり、

震源から遠く離れた青森県ですらこのような状況。

太平洋に面した町であることから津波の被害を受けたエリアもあったと聞きました。

テレビの報道では色々な事を自粛するムードが多く、コム兄達もどうしたものかと思案しました。

父に相談すると、

「こういう時だからこそやろう」

と言ってくれて予定通り執り行うことが出来ました。

コム兄のくせに何様なんだと怒られてしまうかもしれませんが、披露宴は天理と青森の両方でしました。

天理では妻の地元という事もあっての二次会には200人くらいが参加してくれました(レべチ)

部署の人たちが料理やケーキを作ってくれたり、寮の幹事の仲間がスタッフをしてくれたり。

集合写真はそれはそれは壮観です。

多くの方に祝福されて本当にありがたい限りでした。

青森での披露宴の後には

「歳をとると呼ばれるのが葬式ばっかりで、喜ばしい事で呼んでくれてありがとう」

「最近暗いニュースばっかりだったから本当にめでたい」

「元気をもらった」

と逆に感謝されることもあったりして。

自粛をするべきか考えていたけど、強行して本当に良かったな。

「こういう時だからこそ」といわれた時には本当に大丈夫かなとも思いましたが、

こういう事まで考えていたのかなと思うとやっぱり親は偉大だなとも思ったり。

青森の披露宴での様子

新婚生活に慣れてきた頃には赤ちゃんを授かった事がわかり、翌年には長女が誕生しました。

料理人としてもキャリアはイマイチかも知れないけど、こんな人生もいいかもしれない。

25歳のコム兄父さんは思うのでした。

そして父になる編を終えて

最後までお付き合いいただきありがとうございます。

あまり重たい内容ばかりでも読む方のストレスになるかなーなんて思ってアイスブレイクを挟んでみましたが

いかがでしたでしょうか。

今回はコム兄の仕事事情というよりはプライベートな要素が多かった気がします。

25歳で父親になったコム兄ですがどんな未来が待ち受けているのでしょうか。

父親になったコム兄に心境の変化はあったのでしょうか。

コム兄の自伝的内容はまだまだ続きます。

次回も楽しみにしてくださいね。

ではまたっっ

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