コム兄の夢について 序章編

コム兄の生い立ち

みなさんこんにちは。

コム兄が住んでいる地域では彼岸花が咲き始め、揺れる稲穂に色を添えています。

長かった猛暑も落ち着き始め、気が付けば10月。

早いもんですね。

突然ですが皆さん、夢はありますか?

またそれはどんなものですか?

大人になった今でも追いかけていますか?

毎度、毎度有益とは程遠い個人的な情報を垂れ流しにしているコム兄ブログ(面目ない)

もしかしたら多くの方からしてみれば取るに足らないような内容でしょう(自覚はあるw)

今回はコム兄の内面というか、過去について紹介していこうと思います。

個人的にはいつもより繊細な内容になりますが気軽に読み進めていただければと思います。

実はコム兄、夢を追い求めて挫折した過去があるんです。

それ以来コム兄はあらゆることに臆病になってしまいました。

失敗を恐れて可能な限りハードルを下げて。

それを乗り越えることで何とか自己肯定感を保つという生き方を無意識に選択してきたように思います。

吹けば飛ぶような、なけなしのプライドを守って生きてきたんです。

そんなゴミのようなプライドを必死に守るコム兄にも4人の子供がいます。

子供も大きくなるにつれて、それぞれが持つ夢も具体的になってきました。

子供が望む夢はできる限り応援したいというのが親の気持ちでしょう。

しかし、ふとしたことがきっかけで

自分の夢は棚に上げて子供の夢ばかり無責任に応援していること

がたまらなくダサく感じるようになりました。

本シリーズではコム少年の挫折やコム兄の今後について気持ちというか

コム兄自身の思いを整理するためにも現状や思い描いている夢について綴っていこうと思います。

今回はそんなコム兄の人生を振り返るシリーズの「序章」という事でお送り致します。

恥ずかしい話満載ですが挫折した時の事や、もう一度頑張ってみようかなと思ったきっかけなどを言語化して整理できればなって思っています。

応援してくれたら嬉しいです。

40手前のオッサンの挫折話とか夢なんて興味ねぇよ!!

という方は本格的にイライラする前にそっとページを閉じてくださいね。

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閉じずに進めて下さったあなた、ありがとうございます。

では早速行ってみましょう。

ちぇけら。

学生コム兄の夢

過去の話になりますがコム兄は高校卒業と同時に調理師資格を取得。

その後大阪のステーキハウスに住み込みとしてバイトをする傍ら(この時にワインとの出会いを果たします)

専門学校に通うことになったコム少年は

整った環境での授業を受け、一流の料理人を目指す同級生と切磋琢磨するうちに

ミシュランの星付きレストランで修行したい。

とか、

海外で働いてみたい。

と思うようになりました。漠然とですがね。

コム兄が通っていた西洋料理を専攻するコースは1年制でした。

ホテルやレストラン、カフェや居酒屋など自分の思い描く道に近づこうと就職する者、

さらに技術や知識を身に付けるべく進学する者などなど。

コム兄もフランス校への進学を希望しましたが経済的に厳しかった事もあり断念しました。

学校での休み時間には先生達や授業の愚痴で花が咲くわけですが

それぞれが目指すお店のイメージを語り合っていた事を懐かしく思います。

進む道やジャンルこそ違えど皆一様に”いつかは自分のお店を”と思っていたと思います。

一国一城の主

それは料理を志す者なら誰しもが持つ”ありきたりな夢”でしょう。

例に漏れることなくコム兄もそんな夢を抱く少年の一人でした。

学生コム兄の進路

経済的な理由で進学をあきらめた事は先程も申しました。

でも本場フランスで学び、食材や文化に触れる事、現地の星付きレストランで研修するという事へのあこがれを捨てきれずにいました。

思えばこの頃からアホなりに知識欲を満たしたいという欲求があったのかもしれません。

いや、料理の世界で生きていくなら技術磨けって話ですけど。

確実に将来の夢に近づいている同級生が羨ましかったというのもあると思います。

進学への道を断たれたコム兄は就職先を探すことになります。

同級生がホテルやレストランに就職する一方で、コム兄が選んだのは専門学校に就職して先生として学校に残ることでした。

とは言え正直人見知りだし、指導者になりたいなんて気持ちは一切ありませんでした(面接でもハッキリ言った気がするw)

じゃあなんで学校の先生を目指したのか。

それは、学校の先生として働いていたら料理の知識をさらに深められると思ったのと、

ワンチャンフランス校に出向とか行けるんちゃう?と思ったからです。

コム少年フランスへの憧れ半端ねぇわけです。

ホテルやレストランを経験してから学校へ転職しようとする人もいますし、

進学してもう一段上の教育を受けてから職員を希望する人も多いんです。

倍率は20倍とかだったと思います。

そこそこ高いですよね。

そんな状況に卒業したばかりのペーペーが就職試験に挑むわけです。

否、正確には試験が始まったのが秋ぐらいでしたので卒業すらしていないヒヨッコ🐣。

厳しいんじゃないかという意見も多くありましたが

奇跡的に合格し、春からは”コム先生”として学校に通う事になったのでした。

新生活

就職先は通い慣れた学校。

でも学生の頃と、就職してからの景色は全く違いました(当然ですが)

坊主ヘアしか許してもらえない(何ハラですか?)住み込んでいたステーキハウスからも解放されて引っ越して

胸を躍らせながら自転車をこいで通勤していたことを覚えています。

職員と言っても生徒の前に立つなんて言う事はほとんど無く、

講義や実習で使う食材や道具の準備や後片付け、先生方が昼休みに食べる賄い作りが主な仕事でした。

帰宅すると翌日の授業の流れの予習をしていました。

講師補助は授業が円滑に進むようにタイミングよく食材を準備したり、

教授が授業を進めやすいよう調理の進み具合を見て必要な道具を準備したりするわけです。

※3分クッキングが円滑に進んでいるのも優秀なアシスタントが居るからなんですね。(あれは編集してんだよ)

欲しいと思った時に先回りしてサッと差し出す。

これをするためには調理工程が頭に入っていないと中々うまく立ち回れません。

必要な分量なんかも教科書に載っているけど、いちいち見ていたら時間がかかってしゃあないから頭の中に入れ込んでね。

調理用のワイン一つとっても、家で作る時には適当にチャチャっとやったらいいけど学校で教えるのできちっと分量を計量しておく必要があるわけですよ。

しかも同時に並行していくつかのメニューを調理していく訳です。

調理用語もフランス語だったりイタリア語が使用されるのでその予習なんかもしなければ動けません。

要領がいいとも言えないし頭がでかいだけで脳みそが秋刀魚のハラワタぐらいしか入っていないポンコツで

しかも卒業したてで知識も曖昧だったという事もあるしコム兄にとっては大変でした。

慣れればどうって事ないんでしょうがね。

必死のパッチですわ。

その他にも賄いの献立を先輩に確認してもらうためにレシピ本を読み漁ったり、発注する食材のリストを作ったり。

休日もオープンキャンパスの準備などで潰れることも少なくありませんでした。

大変でしたが講師の先生の技を間近で見られたこと、調理工程を理解する事、段取りをイメージする事など

出来ていなくて迷惑をかけたことも大いにありましたがそのお陰で成長できたと思います。

とても懐かしいです。

その当時お付き合いをさせていただいていた彼女は仕事の休みを使って月に2回ほどの頻度でしたでしょうか。

休みたいのをおして広島からわざわざ遊びに来てくれていました。

学校で出会ったので当然のように美味しいご飯を作ってくれるし、お互いの職場での事を話したり、遊びに行ったり。

お互いが料理を作りあって講評しあったり。

その時にも”いつかはお店をやりたいね”なんていう会話をしていたように思います。

ほぼ毎日脳みそが沸騰して帰宅していたコム兄にとってこれ以上ない癒しでしたし、本当に感謝しています。

身体の異変

紹介してきたようにフランスでの研修に憧れを持ち、フランス校への出向という野望を抱いて働き始めました。

そんな忙しい中にも充実した毎日を送るコム兄にある日突然異変が起こります。

朝起きると思うように身体が動かないんです。

嘘みたいに身体が重いというかだるいというか。(二日酔いとかではありませんよw)

「早く支度をして出勤しなきゃ」と頭では思っているんだけど身体が動かない。

やっとの思いで出勤して、納品されたものを確認して賄いの準備を始めたけです。

ニンニクの香ばしい香りも肉や魚を焼く時の香りや音。

普段なら食欲をそそるような香りや音がとても不快で、吐き気やめまいが止まりません。

(ほんとに二日酔いじゃないからね)

そんな状況ですが必死に賄い作りを続けました。

優しい先輩がコム兄に

「めちゃくちゃ体調悪そうやから」

と代わりに仕上げをして下さって。

お言葉に甘えてコム兄は休憩をさせていただき、早退したのでした。

そんなパッとしない状態が数日続きました。

家に帰ると幾分かマシになって、出勤の時間になると思うように身体が動かなくなる。

自分の体の中で何が起こっているのか分からなくてパニック状態だったし、とてもショックで辛かった。

無駄にプライドが高くて、誰かに頼るという事が苦手なコム青年は自分でも気が付かないうちに、

いや、気が付いていたけ気が付いていない振りをしていたのかも知れません。

失敗してはいけないというプレッシャーに押しつぶされ、気が付かないうちにキャパを超えてしまっていたのでしょう。

当時住んでいた7階のアパートから外を眺め、

「ここから飛び降りたら楽になるかもしれないな。」

と考えたこともありました。

思い留まったというよりは、ただ飛び降りる勇気が無かっただけなんですが

ビビりだったお陰で今は元気に生きていますw

帰省

その状況を上司に相談すると、

「夏休みもまとまった休みが無かっただろうから帰省してリフレッシュしてきたらどうや」

というお話を頂き実家に帰ることにしました。

青森の季節の移ろいは早く

Tシャツ一枚では少し肌寒く感じるような季節だったんじゃないかと思います。

帰省することを告げていなかったので両親はとても驚いていましたが、

「遅めの夏休みをもらった」とバレバレのウソをついてごまかしました。

それでも別に干渉してくるわけでもなく、何かしつこく聞いてくるでもなく、

そっとしてくれたことがコム青年にとってはとても有難くて。

ストレスから解放されて回復してきている事もそうですが、

料理をしても吐き気などの症状が出ないことが嬉しくてね。

これならもう大丈夫だ。

もう一回頑張ってみよう。

と決意を新たに実家を後にし、大阪へ戻ったのでした。

業務復帰

気持ちも新たに頑張るぞーと意気込むコム青年でしたが

やっぱり職場に行くとなんというか調子が悪い。

リフレッシュしたはずなのに。

気持ち悪くならなくなったはずのに。

やる気はあるのに。

コム青年は自分自身でも理解できなくて再パニック。

本当に辛くて、助けてほしかったですね。

でも上手く言語化出来なくて助けを求めることも出来なくて。

時には人に弱さを見せられる”強さ”を持っていればなと今では思いますがね。

そんな時にある先輩から

「そんなに仕事サボりたいの?やばくない?」

という超ド級の切れ味のナイフが純心無垢なコム青年の胸にぐさりと刺さりました。

きっと冗談で言ったんだと思います。

そう信じたい。

あるいは虫の居所がたまたま悪かっただけなんじゃないか。

と今だったら割り切ることが出来ると思います。

でも当時のコム兄は周りの人からしたらそういう風に見えてたんだと思うと人の目線が怖くなりました。

僕なんていない方がいいんじゃないかと思うとようになりました。

出勤すること自体が辛くなりました。

そして家から出るのも怖くなりました。

多くの先輩は優しく親身に相談に乗ってくださいました。

プライベートで食事に誘ってくださった先生もいました。

本当に感謝しかありませんし、自分自身が情けなくて号泣してしまった事もありました。(多分引いてたw)

一旦休職するという選択肢も提示いただきましたが、また同じ事を繰り返すだけの気がしたし

何より、サボってんねやろ?という風に思っている先輩と一緒に仕事ができる気がしなくて。

残念で悔しくてたまりませんでしたが一年どころか半年ちょっとで学校の先生を辞めてしままったのでした。

序章を終えて

お読みいただきありがとうございました。

いかがでしたでしょうか。

今回はコム兄の夢を語るうえでは避けては通れない若かりし頃のお話を紹介させていただきました。

輝かしい夢の話をしようとしたのにいきなり挫折した話になってしまいましたね。

普通こういう記事を書く時はキラキラした部分をかいつまんで紹介するんだと思うんですけど

いかんせんコム兄の人生はキラキラした部分が少なくてw

料理が好きなコム兄ですがその料理自体にトラウマというか嫌悪感を抱いてしまっていた時期があったんですんね。

でも今はお陰様でボチボチではありますが料理の仕事をさせていただいております。

こんな感じでコム兄の人生について振り返って紹介していこうと思います。

特に意味はないかもしれませんがねw

情けない話が多くて恥さらしのような内容も多いですが笑いながら読んでくれたらいいかなと思います。

何か悩んでいる人の心が少しでも軽くなったら嬉しいなと思います。

次回作では学校の先生をやめた後のことについて紹介していこうと思いますので楽しみにしていてくださいね。

ではまたっっ!!!

コメント

  1. おおつき より:

    また木谷くんのとこで詳しく聞かせてください!

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